船上・林

01.大観橋

1639〜1649年頃の播ばん州しゅう明石城図には、「歩かち渡わたり」と書かれ、橋はありませんでした。橋が出来たのは幕ばく末まつの天てん保ぽう15(1844)年のことです。その後、道の拡かく幅ふくや災さい害がいによる架かけ替かえが繰くり返さ...

02.大観橋の親柱

橋の完成を、村人たちが歓かん喜きしたので「大歓橋」の名前がつけられましたが、その後「大観橋」と名前は変えられました。橋の西にし詰づめは、現在の広い道ではなく、北側の西にし新しん町まちへ続く道(旧西国街道)の方でした。19明石へリテージマップ...

03.明石大橋の旧親柱

明石大橋は国道2号線(神明道路)の橋で、昭和6(1931)年に完成しました。昭和62(1987)年の補修工事の際に引退し、親柱2基を衣川中学校と明石川右岸に残しています。橋名が漢字表記であれば東詰で、かな表記は西詰です。明石へリテージマップ...

04.出羽殿築堤

関ヶ原せきがはらの戦の後、池田輝政いけだてるまさの甥おいである池田出羽守由之でわのかみよしゆきが船上城ふなげじょうに入りました。出羽守は明石川の氾濫はんらんから船上を守る堤防ていぼうを築きずき、松を植え、その堤つつみは出羽殿築堤と呼ばれまし...

05.乙樋川

船上城ふなげじょうの外堀そとぼりとして利用できるように手が加えられたとされる川ですが、現在はその殆ほとんどが暗渠あんきょとなり、上には道路が設けられています。南王子町と田町の境界線きょうかいせんであり、昭和17(1942)年に明石市と林崎村...

06.大福湯

暖簾のれんは新あたらしいですが半世紀はんせいきに渡わたり近隣きんりんに愛あいされているお風呂屋ふろやさん。脱衣場だついば2階は休憩室の名残で、洗あらい場ばには天窓てんまど、主浴槽しゅよくそうが中央にあり、腰こし掛かけ段だんは汲み出し洗いの名...

07.わらじとお地蔵様

村境むらざかい付近に掘抜ほりぬき(井戸の)地蔵、または縁えん切り地蔵と呼ばれる地蔵堂があります。鼻緒はなおを切って吊つるす草鞋わらじは村境の「道切り」とみられ、泥塗どろぬりの石仏せきぶつと共に疫病えきびょう等を断つ霊験れいけんがあると古くか...

08.改耕記念碑

林崎村の東端とうたんである船上ふなげ地区は平坦へいたんな地でしたが、低地のため水はけが悪く、また古城こじょう川と乙樋おとひ川に挟まれ、区画も複雑でした。そこで林崎村は大正末期から3年の年月をかけ、将来の街路がいろの築造ちくぞうも見据みすえ、...

09.養老橋

江戸時代には密蔵院みつぞういんの北東部には船だまりがありました。大きな船が川を通る際には、橋が邪魔じゃまになるため、簡易かんいな橋を架けており、「よろよろ橋」と名付けられ、後に「養老橋」と転じたようです。江井島港にも同じ名前があります。明石...

10.古波止

池田出羽守でわのかみは港の整備せいびにも力を注ぎ、船上ふなげ川の河口かこうに二丁ちょう(約220m)程の防波堤ぼうはていを築きずきました。現在では海中ですが、引き潮にはその姿を波の形で確認できます。当時、村民は殿様とのさまが淡路まで橋を架か...

11.望海浜の茶亭跡

寛文かんぶん年間(1661〜1672)頃の明石藩主はんしゅ松平信之まつだいらのぶゆきが、ここに暴風ぼうふう、砂止めのための松を植えました。宝永ほうえい8(1711)年には明石城主松平直明なおあきらが、別荘「望海亭」を建てています。明治32(...

12.犬矢来の家

矢来とは、竹や丸太などで作られた仮囲かりがこいです。犬矢来は竹を曲線状に組み、京の町屋にもよく見られます。由来ゆらいは「犬よけ」と言われていますが、道に面した外壁や板塀いたべいから、侵入者しんにゅうしゃや水はねを防ぐ目的もあるようです。変更...
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