人丸/hitomaru

01.鬼門の守り神

素盞嗚神社は牛頭天王をお祀りする祇園信仰の天王社です。本来は疫病等を防ぐ信仰ですが、築城の頃に城下を守るために明石城の鬼門(北東)の方向に鎮座されました。今は天王町というこの地の地名にもなっています。

02.移築された礼拝堂

この建物は旧松蔭女子学院のチャペルとして昭和12年に建造されました。戦争により解体を余儀なくされましたが、昭和21年頃に現在地へ移築されました。 特徴のあった尖塔は姿を変え、今に引き継がれています。

03.埋められた地蔵池

古代山陽道の明石の駅家があったとされる太寺廃寺の北側に、昭和30年頃まで地蔵池と呼ばれるため池がありました。南側は築堤され堤防は往還道として利用されたようです。この池付近で道は曲り、地域の境を形成していました。

04.天神さまの旅の跡

「菅公旅次遺跡」という石碑には菅原道真公が権力争いに敗れ、大宰府へ向かう途中に明石の駅家に立ち寄り、駅長に詠んだと言われている漢詩が刻まれています。 書は画家橋本関雪の父で明石藩儒であった橋本海関の揮毫です。

05.明石に残る最古の寺

太寺廃寺跡にある高家寺本堂は、明石城主小笠原忠政により薬師堂として再建されました。向拝の蟇股には小笠原家の松皮菱の家紋が刻まれています。木造平屋建て寄棟造りの五間堂様式で、残存する明石市最古の寺社建築です。

06.太寺に五重塔?

高家寺境内の東南隅の基壇上に3石の礎石が残されており、その礎石の配置から五重塔級の塔が建っていたとも考えられています。他に奈良時代の瓦なども多く発見されており、明石の駅家にも関わる史跡で、兵庫県指定文化財です。

07.カイヅカイブキの生垣

この辺りの塀には、板塀、モルタルの荒擦り、生垣などが見られます。生垣には砂地など水はけの良い場所を好むカイヅカイブキがよく使われており、高級住宅地としての太寺の景観に大きく寄与していました。

08.洋館付き住宅

大正の終わりから昭和の初めにかけて、和館の母屋に洋館風の付属屋がつけられる様式が、裕福さのシンボルとして全国的に流行しました。これは欧米化を目指す明るい世相を反映したものです。玄関脇に応接間として建てられる事が多く、子供室としても使われました。 この地区にも急勾配の屋根や高い階高、縦長の窓、出窓、外開きのガラリ雨戸、スレート葺や色付き瓦を使った屋根など様々な意匠を見ることができます。建物に合わせてライフスタイルも変化していったと考えられます。

09.壁に日時計のある教会

正面の南向きの壁に垂直型の日時計が取り付けられています。会堂は昭和55年にヴォーリズ建築事務所が設計したものです。前面の建物は昭和21年から7年間、さみどり幼稚園の園舎として使われていました。

10.花頭窓のある割拝殿

この割拝殿の左右に禅宗様の寺に見られる花頭窓があります。妙見社は本来北辰妙見菩薩を信仰する神仏習合の神社として知られています。妙見社は本松寺の西北に位置し、この寺を守護する役割をもつ神社となります。

11.竜山石の列柱擁壁

明石城築城後の元禄4(1691)年、船上城下にあった本正寺が東長寺の跡に移転したのが本松寺です。この辺りは昭和初期まで東長寺谷と呼ばれていました。ここに竜山石の列柱でできている擁壁を見つけました。

12.人丸山復興開発記念の碑

戦後、数回の台風で荒れ果てていた人丸山周辺を民間の復興開発同盟により昭和36年に整備、復興した記念碑です。天文科学館の新築を機に、亀の水から月照寺、柿本神社までの遊歩道、観光進入道路等が整備されました。
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