
奈良時代より明石地方の海上交通の拠点として発展した船上は、三木合戦を経て、秀吉の時代になる
と、その港としての機能を重要視され、天正13(1587)年の高山右近の移封により本格的な港湾型の城下町の建設が進められました。
右近は前任地の高槻と同じように水路や地形などを活用して城づくりをしています。
遺構から見ると城址の石碑があるところが本丸、古城川が内堀、東の乙樋川と西の高浜川が外堀、南
側の船上川河口付近が港で、密蔵院の裏に船溜まりが設けられました。侍屋敷などは、おもに城の東、
北側に配置されていたと思われます。浜街道(高砂道)に建っていた密蔵院、宝蔵寺、神応寺、浄蓮寺の寺も上手く城下町に取り入れています。
右近はわずか2年でバテレン追放令により追放されますが、船上の城下町は秀吉の直轄時代にも引き
継がれ、拡幅されました。
その後も一国一城令が制定され赤松山に明石城、海側に明石港が完成するまでは、船上は明石の海の
拠点でした。

2019年

2024.12.7 撮影

大手門前とされる場所 2019年

大手門前とされる場所 2024.12.7 撮影

浄蓮寺前 鍵辻 2019年
明石ヘリテージマップ『船上・林』2019

2024.12.7 撮影