18.霊水「亀の水」

亀の水は元和7(1621)年に柿本神社の西参道を設けた際に、手水鉢として設けられたのが始まりと伝えられています。長寿の水として知られており、手水鉢には享保4(1719)年に常陸国の飯塚宣政よりの寄進と刻まれています。

19.歴代藩主の菩提寺

長寿院は松平直明の祖母の院号を持つ寺で、越前からの移封と共に明石に移り、以来15代藩主までの墓を祀っています。中でも将軍の子である15代斉宜の御霊屋は、総檜の入母屋造りで三つ葉葵や彫刻が数多く施されています。

20.山下門付近

ここは明石城から人丸山へ続く断層崖です。北は上ノ丸台地で南は沼ノ丁と呼ばれていました。 門はお城の東北にある薬研堀・千石堀の東端に位置し南の侍屋敷と北の上ノ丸組屋鋪・足軽町、東のテラノ町との接点にありました。

21.山下浄水場からの赤水?

戦争で明石の水道施設は大きな被害を受け、市内では時間給水を実施していました。山下浄水場は神大附小の北きた隣に作られ、昭和24 年より昭和41年まで稼動しました。小学校の北、西、南の水路に残る赤い色は金気の水跡かも知れません。

22.明石最古の小学校校舎

神戸大学附属小学校は、明治37 年に兵庫県明石女子師範学校附属小学校として開校しました。昭和 12年に建てられた校舎は、市内で最古の現存校舎と思われます。 丸みの柱やアーチ窓、玄関飾りなど昭和初期の意匠が見られます。

23.2代目二宮金次郎

台座には大阪鋳匠の慶寺丹長と明石石匠の7代目石六の銘がありますが、これは当初(昭和3年頃)のもので、戦時中の金属供出で像は無くなりました。現在のものは足元に「昭和29年健康優良児記念贈高雄弘文」と刻きざまれています。

24.蔵のある道

この辺りの邸宅は、大正末期から昭和初期に建てられました。蔵は家相で乾蔵(母屋の西北)が権威や名誉を守るのに良いとされ、また巽蔵(母屋の東南)も信用を得るのに良いとされています。明石では乾蔵が最も一般的です。

25.和洋折衷の門塀

門の屋根は日本瓦の一文字軒に銅板一文字葺の数寄屋風で、門扉は欅板という純和風の構です。塀の基壇部は御影石で荒切石の整層積、延石は御影の磨き、壁は青石(緑泥片岩)の洗い出しで曲面を作る見事な和洋折衷です。

26.明石城外堀の跡

城の堀には殿様の生活空間を囲内堀、城内を囲う中堀、武家地と町人地の間の外堀がありました。 外堀は殆ど埋められ、道路などになりましたが、外堀の東である大蔵門から本松寺までの堀の北端の一部が、今も残っています。

27.縁の下に三手先斗栱

雲晴寺は、明石藩の家老を奉る菩提寺で、戦災で本堂を消失しましたが昭和52年に再建されました。 本来なら、三手先斗栱は寺社の大屋根と、深い軒先を支える為の構造ですが、広縁の床組みとして用いられている珍しい事例です。

28.元人丸小学校跡地

人丸小学校は明治34年に明石第二小学校として人丸前駅の西側で国道の北に創設されました。大正15年に現在地へ移転されています。石垣を見ると、ここは土地が低く、両馬川が天井川であったことがよくわかります。

29.国道市場

国道市場は山陽電車の線路を昭和8年に神明道路として敷設された時に開業したと考えられます。 市場は国道から直角に引き込むように延びています。左右二階建の店舗に全天候型木造アーケードがかかるのは当時の市場の典型です。