34.フェリー乗り場跡

昭和29年に明石と鳴門のフェリーの航路が国道28号線の一部区間として開通し、本土と淡路島、四国が繋がりました。 その後、外港へ発着場は移されましたが、その跡は今も残っています。

35.昼網と競り

正式名称は「明石市公設卸売市場水産部分場」。藩政時代から港に魚市場があったともいわれます。水揚げしたばかりの魚が11時半から始まる競りに持ち込まれ、新鮮な“明石の昼網”として阪神間などで重宝されています。

36.あかがねの建物

昭和24年の駅前大火で多くの建物が延焼し、その教訓として銅板で外壁を覆う建物が多く建てられました。この緑色の外壁を持つ建物もその一つです。上から見ると八角形の形で、明石港の風情にアクセントを加えています。

37.よみがえった芝居小屋

明治時代この南隣りに三白亭という芝居小屋がありましたが、空襲に備え取り壊されました。昭和22年に再建された芝居小屋はのちに映画館に改修され、平成27年12月ほんまち三白館という大衆演劇場に生まれ変わりました。

38.魚の棚の弁天さん

魚の棚商店街の奥に、ひっそりと弁財天を祀る小社があります。日本三大弁財天の一つ厳島神社から勧請されました。手前には井戸があるため元は水の守り神だったと思われますが、今では商いの守り神として信仰されています。

39.昔の看板

魚の棚商店街は、昭和24年2月20日の大火で多くの店舗が消失し、再建されました。それらの建物も建て替えが進み、往時の面影もなくなりつつありますが、よく見ると今の看板の後ろに昔の看板が残っているところもあります。

40.明石デパート

「らぽす」としてなじみ深いこの建物は明石商工会館として昭和26年に建てられました。市内初の鉄筋コンクリート造5階建の建物にはデパートのほかイベントホールも設けられました。屋上には遊具も設置されていました。

41.おしゃれな風景

戦後の大火で明石の町は広く焼けましたが、この辺り一角は大火から逃れました。ビルを囲むレン道や、美しいモザイクタイルが施された外壁やポーチを持つ写真館など、戦前の明石の街のおしゃれな風景が今も残っています。

42.枝垂れ桜の名所

江戸時代の中頃、枝垂れ桜で有名だったこの地は桜町と呼ばれるようになりました。明治44年、明石城の外堀埋め立てのとき、その白雲桜が地域住民により移植され、橋本海関の撰文による記念碑が建てられました。

43.二つの光明寺

浄土宗光明寺は城から見て海を背景に寺域が映うつることから通称「浜光明寺」と呼ばれています。 一方、浄土真宗朝顔光明寺は元朝顔庵と称し「光源氏月見の池」で有名です。元和5(1619)年、共に城下に移転されました。

44.錦江橋と橋の移り変わり

中崎へは初代城主小笠原忠政の頃は細工筋に御茶屋橋が架けられましたが、三代城主松平光重の代に西へ移りました。錦江橋の架橋は明治44年6月で、明石ゆかりの稲垣足穂一家が、渡り初めの「三代夫婦」に選ばれました。

45.ロゴ入りの境界石

境界石は土地と土地の境目を明確にするために設置するものです。会社、役所などの所有を示したロゴが入ったものもあります。今では半分埋もれてしまっているので確認できませんが、この石は、そんな境界石の一つであると思われます。