船上・林

37.高砂道

旧林村内を東西に貫く浜街道は高砂方面へ通じる生活道であり、地元では高砂道と呼んでいます。高砂道沿いの村の各境界には、村内の自治と自衛のためにわざと遠くを見通せない工夫「遠見遮断」が配置されていることがわかります。

38.高東町の高繁大明神

高東町には戎神社はなく、稲荷社だけがあります。氏神は林神社です。外の塀はなくて一段高くしてあります。高浜東丁の丸三巾着網の統が祀っています。祭には五丁マカセ(5枚布団)の布団太鼓を繰り出すそうです。

39.蛭子神社と一森稲荷

高浜中丁と高浜戎丁の戎巾着網の統がお祀りしています。前に石の鳥居があります。前方は石製の玉垣、周囲はレンガ塀ですが、前面は花崗岩で作られ、立派な印象を与えています。本殿は銅板一文字葺で稲荷社は桟瓦葺です。

40.豊瑛大明神

高浜の八黒町の八九巾着網の統により稲荷神社のみが祀られています。鳥居は石製で周囲の塀はなく、一段上げられたところを玉垣で囲われています。建物も屋根もコンクリート製で赤く彩色されています。

41.藤ノ森大明神

高西町の高西巾着網の統がお祀りをしております。海のすぐそばですが正面は海ではなく、東を向いています。建物はコンクリート製、鳥居は鉄骨製、そして一段上げることにより波などによる流出を防いでいると思われます。

42.浄蓮寺

浄土宗八池山浄蓮寺は、慶長2(1597)年に埋め墓の東隅に開山しました。本堂につづく観音堂のご本尊は厨子の中におられる「聖観世音菩薩」で別所山城守吉親(長治の叔父)が船上城に安置していた秘仏と伝えられています。

43.埋め墓

小高く積った見晴らしの良い砂丘の上に地元民の眠る「埋め墓」があります。一般に三昧とも呼ばれる日本古来の土葬地です。旧高浜集落の村はずれにある無縁の土葬地の一角に浄蓮寺が建てられています。

44.林の水産加工業

林崎漁港の北側には、水産加工業の店が並んでいます。サンマの開き、茹で蛸、焼き穴子、干しちりめんなど様々な専門店があり、明石水産加工組合もここにあります。この地域は、まさに明石の水産加工業の中心地です。

45.林崎漁港作業場

林崎漁港へ行くとロープや浮き、蛸壺など様々な漁具や幾種の漁法によって異なる漁網が、所狭しと置かれています。蛸壺も昔は素焼きの陶器が主流でしたが、現在は殆どが壊れにくいプラスチック製のものになっています。

46.のり・魚貝類供養塔

林崎漁港の西端、松江海岸の入口辺りに並ぶ石碑。明石で海苔の養殖が始まったのは昭和 38 年でした。海藻類の供養塔は全国でも数が少なく、海苔が有名な明石ならではの風景です。

【まめ知識01】密蔵院

寺伝で延喜4(904)年の創建と伝わる護国寺密蔵院は真言宗大覚寺派の大寺院です。大徳寺文書にみる播磨国五箇荘内林崎村が当地であるとすれば大覚寺統の後宇陀院領であることから、密蔵院も大覚寺派の学僧が集まる院家(寺院)であったと推測できます。密蔵院は東播磨の檀林密室灌頂跡といわれ、かつては修行僧に位を授ける密教の学問所として知られていたようです。応永20(1413)年に中興したと伝わる僧増運は当時「弘法の再来」とまで言われた讃岐虚空蔵院(現與田寺)の僧増吽その人で、中世真言宗の有名な勧進僧です。増吽は伝法灌頂が行われていた密蔵院において勧進活動を行い、その資金で当寺院の復興を遂げたとみられます。なお密蔵院の本尊はかつて延命地蔵と准胝観音でしたが、惜しくも昭和20年の空襲で焼失しました。現在は大日如来と地蔵菩薩となっています。

【まめ知識02】船上の城下町

奈良時代より明石地方の海上交通の拠点として発展した船上は、三木合戦を経て、秀吉の時代になると、その港としての機能を重要視され、天正13(1587)年の高山右近の移封により本格的な港湾型の城下町の建設が進められました。右近は前任地の高槻と同じように水路や地形などを活用して城づくりをしています。遺構から見ると城址の石碑があるところが本丸、古城川が内堀、東の乙樋川と西の高浜川が外堀、南側の船上川河口付近が港で、密蔵院の裏に船溜まりが設けられました。侍屋敷などは、おもに城の東、北側に配置されていたと思われます。浜街道(高砂道)に建っていた密蔵院、宝蔵寺、神応寺、浄蓮寺の寺も上手く城下町に取り入れています。右近はわずか2年でバテレン追放令により追放されますが、船上の城下町は秀吉の直轄時代にも引き継がれ、拡幅されました。その後も一国一城令が制定され赤松山に明石城、海側に明石港が完成するまでは、船上は明石の海の拠点でした。