【まめ知識01】山側と海側の関係

人丸
住宅地として整備された太寺

人丸(あた)りのまちは、かいがんだんきゅう()(さかい)に山側と海側にはっきりと分かれています。ちゅうせい()以降は海側の街道(かいどう)せい()され、りょうまち)宿しゅくまち()じょうまち()からかんちょうがい()しょうぎょう()としてはってん()していきました。

一方、山側はうち()こう()と台地が相まって水耕(すいこう)には(てき)さない土地でしたが、近世以降のため池の普及によりのう()が広がりました。

明石城ができるまでのしゅうらく()を見ても、おおくらだに()村、おおあか()村、なか()しょう()村はいずれも海側で、太寺(たいでら)は大蔵谷村(あざ)太寺と呼ばれていました。

けいざいりょく()も海側の方が大きいので海側の裕福(ゆうふく)な人たちが、山側の開発を進めて行く場合が多かったと推測(すいそく)されます。大蔵町の人達が、朝霧(あさぎり)や東野町、太寺に農地を持っていることが多く見られます。

大正から昭和初期にかけては、事業に成功した人の住宅建設がブームとなり、交通便べん()で見晴らしの良い上ノ丸、太寺が宅地として見直されるに至りました。

昭和2年には明石市で初めての土地区画整理事業が上ノ丸・太寺ではじまり、山側は益々(ますます)宅地としての価値を高めていきました。

収益用のアパートも建てられました
昭和初期の上ノ丸住宅
代々の農家も残されています

明石ヘリテージマップ『人丸』2018

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