
忠度は平清盛の末弟で武将ですが藤原俊成に師事し、優れた歌人でもありました。寿永3(1184)年の一ノ谷の戦いに敗れ、両馬川付近で最期を遂げたと言われています。
写真1は追手の岡部六弥太忠澄と騎馬で川を挟んで戦ったことで、命名された両馬川にある石碑です。
この石碑はかつて川に架かっていた両馬橋と眼鏡橋の石材で作られたと伝わっています。
写真2は忠度の切られた右腕を供養した祠が、明治維新後に神社となった腕塚(右手塚)神社です。
写真3は街道から腕塚へ行くための腕塚道を示す道標です。
写真4は忠度の亡骸を埋め、五輪塔が建てられた忠度塚です。荒廃した塚を修復した5代目明石藩主の松平忠国が、自詠の歌を刻んだ石碑もあります。
その他に清盛の甥で、歌人でもある平経正(敦盛の兄)の馬を埋めたと言われる馬塚もあります。
歌人の最期が歌聖・柿本人麻呂縁の地であることを願う心が込められているようです。付近の方々は、史跡を地域の宝物として連綿と大切に維持管理されています。



明石ヘリテージマップ『人丸』2018