まめ知識

【まめ知識03】明石郡の官庁街

明治12(1879)年に郡区町村編制法が兵庫県で施行され行政区画として発足した明石郡は全域が旧明石藩領で、明治22(1889)年の時点で明石町、林崎村、大久保村、魚住村、伊川谷村、玉津村、櫨谷村、押部谷村、平野村、神出村、岩岡村、垂水村の1町11村でした。相生町には明石郡の警察署、電信局、治安違罪裁判所、郡役場、公会堂など次々と移転新築され、郡の一大官庁街となりました。相生町は、この地域の先進地であった明石城下と大蔵谷村の中間点であり、民家も比較的に密集していなかったことで移築や新築が容易であったことが推測されます。郡制には郡長(官選)と郡会・郡参事会が設けられ自治体として機能しておりましたが、町の単位、県の単位も存在していたため、行政区分が煩雑でした。やがて各村は併合を繰り返し、明石市、神戸市などに統合され、郡制は大正12(1923)年に廃止されました。明石市の初代市長は明石郡最後の郡長の三輪伸一郎氏で、彼は明石市の理想は庭園的住宅都市の建設であると述べていました。

【まめ知識04】中崎遊園地

明石城址は明治22(1889)年に郡立公園となり、整備が進んでいましたが、明治31(1898)年に、皇宮地附属地に編入され、公園は廃園となりました。明石町は観光客や地元民の遊楽する場所として、中崎の公園化を県に働きかけ、明治36(1903)年に明石遊園が開設されました。元々中崎は白砂青松で淡路島を望む風光明媚な所で、城主の数寄を凝らした別邸御茶屋もあり、秋は月に、夏は海水浴に最も適するとされていました。町は吾妻家、腰掛、茶店等を整備し、高級旅館も建ち並ぶようになりました。 大正6(1917)年の兵庫電気軌道(山陽電車) の開通に合わせ「遊園地前駅」を作り観光客誘致に努めました。近代的な錦江ホテルが昭和初期に開業しました。この建物は昭和23年に播陽幼稚園として改装されましたが、ホテルが幼稚園になるということで話題となりました。中庭の池泉式日本庭園をそのまま園庭にしていたと言われてます。水産試験場が再建され昭和23年に、水産博覧会が開催され、その後も花火大会や漫才大会のイベントなどで大いに賑わいました。

【まめ知識01】密蔵院

寺伝で延喜4(904)年の創建と伝わる護国寺密蔵院は真言宗大覚寺派の大寺院です。大徳寺文書にみる播磨国五箇荘内林崎村が当地であるとすれば大覚寺統の後宇陀院領であることから、密蔵院も大覚寺派の学僧が集まる院家(寺院)であったと推測できます。密蔵院は東播磨の檀林密室灌頂跡といわれ、かつては修行僧に位を授ける密教の学問所として知られていたようです。応永20(1413)年に中興したと伝わる僧増運は当時「弘法の再来」とまで言われた讃岐虚空蔵院(現與田寺)の僧増吽その人で、中世真言宗の有名な勧進僧です。増吽は伝法灌頂が行われていた密蔵院において勧進活動を行い、その資金で当寺院の復興を遂げたとみられます。なお密蔵院の本尊はかつて延命地蔵と准胝観音でしたが、惜しくも昭和20年の空襲で焼失しました。現在は大日如来と地蔵菩薩となっています。

【まめ知識02】船上の城下町

奈良時代より明石地方の海上交通の拠点として発展した船上は、三木合戦を経て、秀吉の時代になると、その港としての機能を重要視され、天正13(1587)年の高山右近の移封により本格的な港湾型の城下町の建設が進められました。右近は前任地の高槻と同じように水路や地形などを活用して城づくりをしています。遺構から見ると城址の石碑があるところが本丸、古城川が内堀、東の乙樋川と西の高浜川が外堀、南側の船上川河口付近が港で、密蔵院の裏に船溜まりが設けられました。侍屋敷などは、おもに城の東、北側に配置されていたと思われます。浜街道(高砂道)に建っていた密蔵院、宝蔵寺、神応寺、浄蓮寺の寺も上手く城下町に取り入れています。右近はわずか2年でバテレン追放令により追放されますが、船上の城下町は秀吉の直轄時代にも引き継がれ、拡幅されました。その後も一国一城令が制定され赤松山に明石城、海側に明石港が完成するまでは、船上は明石の海の拠点でした。

【まめ知識03】漁村の町割

林村は高砂道と瀬戸内海にはさまれた漁村で、浜辺に向かう縦の「筋」に沿って短冊状の町割りが形成されています。上下関係のない自由(すなわち無主)の浜辺に形成された漁村には漁労集団ごとに結束する自治の「場」が必要であり、それが短冊状に形成された町割りにも反映されています。林村の町割りは高浜川(自由川)を境にして林地区と高浜地区に分かれます。ほぼ漁業で占めた林地区に対して高浜地区は半農半漁の村であったといいます。また林地区は網漁やタコ壷漁を大規模な集団で営む東ノ丁(大東町、大丁、獅子投町の三町)とそれ以西の比較的小規模な釣漁を営む西ノ丁他(林二丁目)に大きく区分されると言われています。林村には各町の町割り内に小神社の祭祀場があります。祭祀のみならず地域の経済、社会などと強く結びついた漁労集団の強い地縁は短冊状の町割りを形成しています。

【まめ知識04】林の漁業

林村の漁業の発展は全国屈指の好漁場である鹿ノ瀬を高山右近の頃から明治の中期まで約300年間にわたり独占してきたことです。鹿ノ瀬ではイカナゴ、イワシ、蛸、鯛など多くの魚種を主に漁船を駆使した漁法で、大量の漁獲を得ていました。新浜では漁師の個人所有の船であるのに対して、林では共同で船を持っているのが特徴です。イワシ漁は明治後期に林村の藤原繁蔵が改良した巾着網により、飛躍的に漁獲量が増え、林小学校には巾着網記念碑があります。巾着網には10隻以上の船と総勢100名近くの労力が必要でしたのでイワシ漁の時期になると各町が一体になって取り組みました。東之町、中之町、西之町、元網(川端町、宮之町)、丸三(高浜東丁)、戎(高浜中丁、高浜戎丁)、八九(八九郎丁)、高西(高浜西丁)の8統ができ、地区ごとに戎神社、稲荷社等を祀っています。今は巾着網も姿を消しましたが、海苔の養殖などで共同作業が生かされています。

【まめ知識01】藤江の競馬場

昭和2年、兵庫県畜産組合連合会により明石郡大久保に競馬場が建設されることが決まりました。しかし、競馬場を建設するための資金調達が上手くいかず、同連合会から依頼を受けた宇治川電気と明石土地建物株式会社が経営・担当を引き受け、藤江に明石競馬場が開設されました。そして昭和3年5月11日から4日間、初めての競馬が開催されました。明石競馬場では年に2〜3回、それぞれ3日間の競馬が開催されていました。出走馬は100頭を超え、数万人の観客が訪れたそうです。競馬の合間にはオートバイ競争や花火大会などが催されました。また1万坪の場内には、教材花園があり、小・中学生の学習にも利用されました。しかし昭和14年の軍馬保護法により、競馬場は閉鎖されます。その後、川崎航空機工業株式会社の明石工場設置に伴う工員住宅建設のため、その跡地は住宅団地へと姿を変えました。以前の藤江駅は、競馬場の馬券売り場を転用したものでしたが、昭和60年に現在の駅舎に建て替わりました。

【まめ知識02】龍泉寺と青龍神社

龍泉寺は建長6(1254)年に法燈国師開基の伝承を有する寺院です。法燈国師は同年南宋から帰国しているので、当地に立ち寄った可能性があります。浜街道沿いの藤江川河口の小高い丘上に位置し、往古は眼前に海岸線が広がっていたとみられます。青龍神社は創建を建長6(1254)年とする藤江村の鎮守社です。 御祭神の上宮青龍五社大明神は林神社の上宮五社大明神を勧請しています。青龍神社は現在藤江川と浜国道(県道718号線)が交差する場所に位置しますが、往古は海岸に面した小高い丘の上に鎮座していたと考えられます。龍泉寺は元禄14(1701)年、 臨済宗法雲和尚により再興され寺院であり、中世における龍泉寺と青龍神社の神仏習合関係はわかりません。しかし、両者の名称は「龍」の一字を有し、創建年も同じで、 且つお互いに隣接するなどの共通点があり、注目に値します。龍泉寺と青龍神社は昔から藤江村の熱い信仰を得て今に至ります。

【まめ知識03】御崎神社と的射

播磨国の神名帳によれば、旧明石郡内13社の一つに数えられ、南北朝時代に社殿を造営し主祭神を勧請、 山王二十一社大権現という格式の高い神社となり明治維新に御崎神社と改称したと言われています。また、神社にまつわる「鉄人の船と霊」の伝説から、山王権現が弓矢を用いて悪霊を退治したという故事に基づく神事があります。この神事は寛文12(1672)年より今も続き、約350年の歴史を持ち、明石市の無形民俗文化財に指定され、地元住民で作る保存会で継承されています。神事は1月中旬に行われ、当日は大前1人、 弓立4人、子供5人をもって奉仕します。大前・弓立は黒紋付麻裃、子供は黒紋付に袴の出で立ちで、まず大前が天地を狙い、終りに的に向かって矢を放ちます。それから大前・弓立五人で一斉に矢を天に向かって4回放ち、神事の子供は各その矢を拾って神前に供え、豊作・豊漁を祈願し式を終えます。

【まめ知識04】藤江村の集落

藤江地区は藤江川を挟み東西に形成した集落です。藤江の地名伝承の一つに「淵江」という由来もありますが、藤江川沿いにはかつて大きな入江が形成されていたと考えられます。しかし、藤江村の河口付近は永年の土砂の堆積により次第に低湿地化し、更に昭和時代の河川改修により護岸も整備され、自然災害のリスクは低減しています。藤江川の右岸は龍泉寺や青龍神社の門前を核として比較的規模のある民家が集積しています。このエリアの民家は海岸と藤江川で形成された低湿地帯であったため、各民家は排水対策として竜山石の石垣で掘割を巡らし、海岸沿いの水はけを改善している点を特徴としています。一方、藤江川左岸河口付近の集落は海に向かって短冊状に家並みが集積し、縦筋の道に開口する民家が形成されています。短冊状にまとまった集落の形状は、東岸の集落が漁村の機能を持った集落であったことを示しています。

【まめ知識05】松江の地形と地名

西松江地区は地形にちなんだ地名が多くみられます。先ず地名を示す小字「泥ぐじ」は東松江村の東松江川左岸に位置しています。字名から「えぐられた泥状の土地」という意味が読み取られ、低湿地の地形が地名に残ったと考えられます。小字「泥ぐじ」の西対岸に位置する「あし池」もかつては低湿地であった名残を地名に残しています。また「あし池」に隣接する小字「大王」は浸食地を暗示する名称であり、海岸に近い低湿地の一部とみられます。西松江村は東西の松江川に挟まれた集落です。東西の江川に接する西松江村の中心には小字「東出口」、小字「西出口」が残ることから、西松江村は東松江村よりも古い集落が形成されていたことがわかります。東松江村は赤石川を挟みながら東西に形成された集落で、小字「東野」と小字「西野」にかけてが東松江地区の中心地です。なお、東松江村からみて、東松江川沿いは小字「出口」あることから、東松江川が東西の松江村の境界となっていたことがわかります。