30.入口がない蔵

国道沿いに本瓦葺きの2階建、壁は銅板と縦板張で覆われた立派な蔵があります。母屋は質店で、玄関は南側の道に面していました。 山陽電車の線路だったところを国道にしたので、後向きに建てたように見えるのでしょうか?

31.街なかの和風旅館

桜町の白雲社は(冊子城下42)の隣に、和風旅館があります。腰は杉の縦板張で壁は漆喰塗りです。窓に施ほどこしてある木製の格子の細工が美しいです。ホテルがなかった頃は、街なかには小さな和風旅館 がいくつもありました。

32.郵政相生宿舎

この地には、明石電信局が明治16(1883)年に建てられました。明治22(1889)年には明石郵便電信局、明治36(1903)年には明石郵便局と改称されましたが、戦争で消失しました。 現在はシンプルにデザインされたRC造の宿舎が建っています。

33.境界石は語る

敷地境界を示す境界石に、色々なマークや文字の入ったものを見かけることがあります。 「〒」は郵便局、「海」は海岸だったところでしょうか? このようなアイテムを見つけることもまち歩きの楽しみです。

34.ここは鍛冶屋町?

本松寺を南下して旧街道と交わったところに道標があり、そこに「従是人丸山三丁鍛治屋町丁内」と刻まれています。この位置は今では天文町ですが、古地図では鍛治屋町であったことがわかります。 道標は地境の証でもありました。

35.山陽道沿いの町屋

大蔵町から山陽道沿いに城下へ向かう途中に町屋があります。 駒寄せや2階屋根の出桁などは大蔵町の町屋の意匠によく似ていますが、壁の銅板や 2 階の階高を高くするなど、大蔵町よりは新しい時代のものと思われます。

36.お寺にモダンな塀

昭和 29 年に高野山真言宗人丸教会は移築されました。そこは明治15 年から昭和 3 年まで明石警察署や官舎があった場所です。 建物は入母屋破風を重ね、和風ですが、塀はレンガ下地で洗い出し仕上げなどモダンな意匠です。

37.村境の道標

子午線標柱の横に建つ道標には「左ひやうご大阪道、右加古川ひめぢ道」と刻まれています。建立された慶応元(1865)年時では、この道標は宿場町と城下町との境でした。 やがて明治になると大蔵谷村と明石村の村境の道標となりました。

38.中崎公会堂

明治 44(1910)年に竣工した明石郡立中崎公会堂は、明石郡伊川谷村出身で東大寺大仏殿の補強を任された加護谷祐太郎の設計です。 入母屋造りに千鳥破風と唐破風を重ねた伝統的和風の外観ですが小屋組は洋風のトラス構造です。

39.忠魂碑

忠魂碑は日露戦争などで戦死した地域出身の兵士の記念碑です。この忠魂碑は明石市制の施工直後の大正 8(1919)年 11 月 5 日に起工して、規模も大きく立派です。設計は公会堂と同じ加護谷佑太郎、書は東郷平八郎元帥の揮毫です。

40.美しい門

小さいながらも、数寄屋風入母屋の屋根には一文字瓦と銅板を使い、柱は小節の磨き丸太、軒裏は小丸太の扇垂木、竹を使った門扉と趣向を凝らしています。北に中崎公園、南に淡路島を望む別荘地にふさわしい美しい門です。

41.漱石の泊まった宿

公会堂の杮落し講演に来た夏目漱石は前日の明治 44(1911)年8月12日に衝濤館に泊まりました。日記には「庭先三間の所に三尺程ほどの石垣あり、波が其外でじゃぶじゃぶといふ」と記しています。桧皮や銅板、手摺など今でも往時を偲ぶことができます。