42.ラヂオ塔

大正 14 年(1925)に始まったラジオ放送を誰でも聞けるよう昭和5年から昭和18年にかけて全国に45箇所以上のラジオ塔が設置されました。現在兵庫県ではここ中崎と諏訪山公園に残るのみです。支柱の間に機器が置かれていたようです。

43.明石市立水族館跡

全国の水族館ブームにのり、県立水産試験場附属施設を譲り受けた明石市立水族館が昭和32年4月に開業しました。ペンギンプールやウミガメ、蛸たこの釣り堀が人気でしたが、大型水族館には勝てず、昭和 47 年に閉館しました。

44.中崎運河跡

明石藩が築いた堀川は運河として一部残っていましたが、下水が多く流れ込み、水質が悪化したため平成7年、公共下水道の景観モデル事業として運河を暗渠とし景観に配慮した植栽や遊歩道などを設置、憩いの場となりました。

45.釣りの後で宴会

昭和30〜40年代、東築港の北側は舟宿や料理旅館が建ち並び、賑わっていました。 明石は京阪神からの利便性も良く、釣りも人気で、釣り大会をしてから宴会を開くといった集まりも多く開催されました。今もその面影が残っています。

46.東築港

小笠原忠政は築城と同時に港を整備しました。砂を浚え、石垣を積んで港を築いたようです。港の東側は堀川(内川)と呼ばれ、今の公会堂までありました。その砂を積み上げたのが中崎で後に水主組組屋敷や船宮が設けられました。

【まめ知識01】山側と海側の関係

人丸辺りのまちは、海岸段丘を境に山側と海側にはっきりと分かれています。中世以降は海側の街道は整備され、漁師町、宿場町、城下町から官庁街、商業地として発展していきました。 一方、山側は瀬戸内気候と台地が相まって水耕には適さない土地でしたが、近世以降のため池の普及により農地が広がりました。 明石城ができるまでの集落を見ても、大蔵谷村、大明石村、中之庄村はいずれも海側で、太寺は大蔵谷村字太寺と呼ばれていました。 経済力も海側の方が大きいので海側の裕福な人たちが、山側の開発を進めて行く場合が多かったと推測されます。大蔵町の人達が、朝霧や東野町、太寺に農地を持っていることが多く見られます。 大正から昭和初期にかけては、事業に成功した人の住宅建設がブームとなり、交通至便で見晴らしの良い上ノ丸、太寺が宅地として見直されるに至りました。 昭和2年には明石市で初めての土地区画整理事業が上ノ丸・太寺ではじまり、山側は益々宅地としての価値を高めていきました。

【まめ知識02】歌人 平忠度

忠度は平清盛の末弟で武将ですが藤原俊成に師事し、優れた歌人でもありました。寿永3(1184)年の一ノ谷の戦いに敗れ、両馬川付近で最期を遂げたと言われています。 写真1は追手の岡部六弥太忠澄と騎馬で川を挟んで戦ったことで、命名された両馬川にある石碑です。 この石碑はかつて川に架かっていた両馬橋と眼鏡橋の石材で作られたと伝わっています。 写真2は忠度の切られた右腕を供養した祠が、明治維新後に神社となった腕塚(右手塚)神社です。 写真3は街道から腕塚へ行くための腕塚道を示す道標です。 写真4は忠度の亡骸を埋め、五輪塔が建てられた忠度塚です。荒廃した塚を修復した5代目明石藩主の松平忠国が、自詠の歌を刻んだ石碑もあります。 その他に清盛の甥で、歌人でもある平経正(敦盛の兄)の馬を埋めたと言われる馬塚もあります。 歌人の最期が歌聖・柿本人麻呂縁の地であることを願う心が込められているようです。付近の方々は、史跡を地域の宝物として連綿と大切に維持管理されています。

【まめ知識03】明石郡の官庁街

明治12(1879)年に郡区町村編制法が兵庫県で施行され行政区画として発足した明石郡は全域が旧明石藩領で、明治22(1889)年の時点で明石町、林崎村、大久保村、魚住村、伊川谷村、玉津村、櫨谷村、押部谷村、平野村、神出村、岩岡村、垂水村の1町11村でした。 相生町には明石郡の警察署、電信局、治安違罪裁判所、郡役場、公会堂など次々と移転新築され、郡の一大官庁街となりました。 相生町は、この地域の先進地であった明石城下と大蔵谷村の中間点であり、民家も比較的に密集していなかったことで移築や新築が容易であったことが推測されます。 郡制には郡長(官選)と郡会・郡参事会が設けられ自治体として機能しておりましたが、町の単位、県の単位も存在していたため、行政区分が煩雑でした。やがて各村は併合を繰り返し、明石市、神戸市などに統合され、郡制は大正12(1923)年に廃止されました。 明石市の初代市長は明石郡最後の郡長の三輪伸一郎氏で、彼は明石市の理想は庭園的住宅都市の建設であると述べていました。

【まめ知識04】中崎遊園地

明石城址は明治22(1889)年に郡立公園となり、整備が進んでいましたが、明治31(1898)年に、皇宮地附属地に編入され、公園は廃園となりました。 明石町は観光客や地元民の遊楽する場所として、中崎の公園化を県に働きかけ、明治36(1903)年に明石遊園が開設されました。 元々中崎は白砂青松で淡路島を望む風光明媚な所で、城主の数寄を凝らした別邸御茶屋もあり、秋は月に、夏は海水浴に最も適するとされていました。町は吾妻家、腰掛、茶店等を整備し、高級旅館も建ち並ぶようになりました。 大正6(1917)年の兵庫電気軌道(山陽電車) の開通に合わせ「遊園地前駅」を作り観光客誘致に努めました。 近代的な錦江ホテルが昭和初期に開業しました。この建物は昭和23年に播陽幼稚園として改装されましたが、ホテルが幼稚園になるということで話題となりました。中庭の池泉式日本庭園をそのまま園庭にしていたと言われてます。 水産試験場が再建され昭和23年に、水産博覧会が開催され、その後も花火大会や漫才大会のイベントなどで大いに賑わいました。