城下

【まめ知識01】まちのお地蔵様

お地蔵様は、人々の悲しみや苦しみを救済するために存在する庶民の身近な信仰対象です。「地蔵」はサンスクリット語の「大地の母胎」を意い訳やくしたもので、一般に「地蔵菩薩」と呼んでいます。 お地蔵様には妊婦の安産を守る「子安地蔵」、災難にあった人の苦しみの身代わりとなる「身代わり地蔵」、六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)の入り口に立ち、人々の苦しみを救済する「六地蔵」など、さまざまな姿があります。 この地では、寺院や町内の角、道ばた、家の一角など様々な形で祀られたお地蔵様を見かけることができます。 お地蔵様に飾られた赤ずきんと赤いよだれ掛けは、子供達を守る魔除けの風習によるものです。夏の地蔵盆が来ると、子供達はお菓子を目当てに町内のお地蔵様を巡礼します。 暮らしの中で、私たち庶民を見守り、願いごとを聞いてくれる存在がお地蔵様なのです。

【まめ知識02】小神社

明石城下の海浜地区一体には、岩屋神社をはじめ、伊弉冊神社、(伊弉冊神社の)御お旅所、伊弉諾神社、若宮神社など、大小の神社が和多く点在しています。 これら神社の参道は海に向かってまっすぐ伸びています。神社の祭神は海や川に因むことが多いという点からも、わたつみ(海神のこと)の神社であることは容易に想像できます。 玉垣が巡めぐる大きな神社は、古い由緒を持つ氏神様として地域の信仰を集めています。一方、小さな神社(小神社)は地主神として、まちなかにひっそりと祀られています。 小神社の祭神は様々ですが、祠を守る人々の様々な願いのニーズがそこに反映されています。小神社は規模も小さいため、拝殿を設けるまでもなく簡素な造りです。 拝殿がない代わりに、大抵の小神社には献花や供物等などを備えるための献台が設けてあることに気が付きます。献台は聖俗のささやかな結界となっています。

【まめ知識03】漁村の町並み

明石城下の計画に伴い、港から明石川の南側一帯に水主が集められ、当津村新浜と呼ばれる漁村が形成されました。 この地域は戦災にあいましたが昔の敷石に沿って再建されたため複雑に木造住宅が密集して建ち並ぶ、かつての町割が大きく変わることのない地域となっています。 海に向かって縦断する通りが幾重にも並ぶ縦割りの町並みは、海との関係を第一に大切にする漁村ならではといえます。 漁業という共通の目的で結ばれた一帯は、 一つの井戸を共同で利用したり、各プロックでお地蔵様を祀るなど、集住世帯が一つの共同社会として機能しています。 町並みとして見ると、屋根や庇の高さはほぼ同じで、 間口や奥行きも大きく差異はありません。  細く縦横に巡らされた路地や密集家か屋からなる人間サイズの町並みは、 地域の絆を一層結びつけているようです。

【まめ知識04】明石の町割

城下町以前、この地域は旧山陽道に沿って中庄村(明石川左岸)と大明石村があるだけでした。 お城は西の明石川と東の両馬川の中心の小山(赤松山)に築かれ、その麓を通っていた山陽道を南に迂回させて、外堀を設けました。 東西の川近くには足軽・組屋敷やお寺を配し、城下町を守り、明石川には警護のため江戸時代後半まで橋は架けられませんでした。 城下西端には姫路口門を構え十王堂が、東端には京口門に一向光明寺(朝顔光明寺)が配されました。外堀より内は侍町、その南は町屋で構成され、船溜りから西に船手(水主)が集められました。 城下町形成初期の町屋は、東から鍛治屋町、細工町、東魚町、東本町、西本町、西魚町、信濃町、東樽屋町、西樽屋町、明石町でした。 東西に職人町、中央に商人町という配置で、特に東魚町は鮮魚と練り物、西魚町は干物、海産物と専門別にお店が集められていました。 現在は違う町名(本町)になり、地名を手掛かりに往時を辿るのが難しくなってきました。