人丸

13.子午線標柱

日本標準時子午線は明治19(1886)年に制定されました。 明治43(1910)年には旧明石郡の小学校の先生たちがお金を出し合って日本最初の子午線標識が建設されました。(写真1)昭和5年には人丸山にトンボの標柱(写真2)、昭和8年には神明国道(2号線)に標識が建設されました。(写真3) これらの標識は再実測等により何度か移設されていますが、天文科学館所蔵の子午儀と共に市指定文化財になっています。 昭和35年、子午線上に建てられた明石市立天文科学館は国の登録有形文化財になっています。

14.動く「亀の碑」

この石碑は寛文4(1664)年に明石城主松平信之が建立しました。碑文は1712字の人麿伝記、全て読めば亀が動くと言われています。台座は亀趺と言われ中国からの様式です。亀は贔屓といい、龍になれなかった龍の子供です。

15.伏見城から来た門

この門はかつて明石城居屋敷廓(城主居館)の切手門(正門)でした。明治初年に月照寺に山門として移築されました。元々は伏見城の薬医門でしたが、明石城の築城時に拝領されたものです。桃山風の豪壮な風格の四脚門です。

16.播磨で一番古い狛犬

拝殿前にある石造狛犬で、右は口を開け左は口を閉じ、阿吽の対をしています。本体は砂岩で台座は花崗岩、立髪の巻き毛が特徴です。 台座には宝暦4(1754)年の銘があり、現存する石造狛犬の中で、播磨で最古の作とされています。

17.鳥居の笠木が柵に

この鳥居は阪神淡路大震災により倒壊し、鳥居の上部に当たる笠木、島木、貫と呼ばれる所がステンレス製となりました。元々の部材は柵として石段の脇に設置されており、震災当時を物語る遺産として、保存活用されています。

18.霊水「亀の水」

亀の水は元和7(1621)年に柿本神社の西参道を設けた際に、手水鉢として設けられたのが始まりと伝えられています。長寿の水として知られており、手水鉢には享保4(1719)年に常陸国の飯塚宣政よりの寄進と刻まれています。

19.歴代藩主の菩提寺

長寿院は松平直明の祖母の院号を持つ寺で、越前からの移封と共に明石に移り、以来15代藩主までの墓を祀っています。中でも将軍の子である15代斉宜の御霊屋は、総檜の入母屋造りで三つ葉葵や彫刻が数多く施されています。

20.山下門付近

ここは明石城から人丸山へ続く断層崖です。北は上ノ丸台地で南は沼ノ丁と呼ばれていました。 門はお城の東北にある薬研堀・千石堀の東端に位置し南の侍屋敷と北の上ノ丸組屋鋪・足軽町、東のテラノ町との接点にありました。

21.山下浄水場からの赤水?

戦争で明石の水道施設は大きな被害を受け、市内では時間給水を実施していました。山下浄水場は神大附小の北きた隣に作られ、昭和24 年より昭和41年まで稼動しました。小学校の北、西、南の水路に残る赤い色は金気の水跡かも知れません。

22.明石最古の小学校校舎

神戸大学附属小学校は、明治37 年に兵庫県明石女子師範学校附属小学校として開校しました。昭和 12年に建てられた校舎は、市内で最古の現存校舎と思われます。 丸みの柱やアーチ窓、玄関飾りなど昭和初期の意匠が見られます。

23.2代目二宮金次郎

台座には大阪鋳匠の慶寺丹長と明石石匠の7代目石六の銘がありますが、これは当初(昭和3年頃)のもので、戦時中の金属供出で像は無くなりました。現在のものは足元に「昭和29年健康優良児記念贈高雄弘文」と刻きざまれています。

24.蔵のある道

この辺りの邸宅は、大正末期から昭和初期に建てられました。蔵は家相で乾蔵(母屋の西北)が権威や名誉を守るのに良いとされ、また巽蔵(母屋の東南)も信用を得るのに良いとされています。明石では乾蔵が最も一般的です。