まめ知識

【まめ知識01】大蔵のまちなみ

手前より服部邸、卯月邸 撮影年:2014年 大蔵八幡町には、11の太鼓蔵たいこぐら、09の服部邸はっとりてい、08の卯月邸うづきてい、旧大塩邸きゅうおおしおていが建ち並んでいます。 服部邸、卯月邸、旧大塩邸は、旧西国街道きゅうさいごくかいど...

【まめ知識02】さまざまな石

今も残る石の側溝と先地境界 撮影年:2014年 石は古来こらいからの建築材料けんちくざいりょうで、古いまち並みには、いたるところに見つけることができます。地面に埋められている地先境界ちさききょうかいや側溝そっこう、隣地りんちとの境界に建てら...

【まめ知識03】本陣跡と残された木

本陣椿の門 故・久保直明氏 撮影 "本陣ほんじん"とは、大名や幕府ばくふ役人などの貴人きじんが泊まる宿のことで、大蔵谷本陣は、天正てんしょうの頃、岩国(現山口県)から来た広瀬治兵衛が開いたといわれています。江戸時代になると、西国街道沿いにあ...

【まめ知識04】大蔵の瓦・焼物

ダルマ窯の例(南あわじ市) 明治の頃大蔵には黒瓦くろがわらの瓦屋が10軒あり、職人しょくにんも100人以上おりました。明石瓦は産地では、県下唯一ゆいいつの一級地でした。土は朝霧川あさぎりがわの上流の山でした。 ダルマ窯かまで、両方から焚たき...

【まめ知識05】東湯とお風呂さん

東湯正面 大蔵には、お風呂屋さんが三軒ありました。内風呂うちぶろが普及ふきゅうしていない一昔前ひとむかしまえでは、お風呂屋さんは暮らしに必要不可欠ひつようふかけつな存在でした。 一番東にあった「朝霧湯あさぎりゆ」は、平成15年頃に撤去てっき...

【まめ知識06】大蔵のまちわり

西国街道、大蔵西端の遠見遮断 大蔵は古くから交通の要所ようしょでしたが江戸時代に西国街道さいごくかいどうが整備せいびされ大蔵谷宿しゅくとして栄えました。東西を貫つらぬく街道と平行に脇道わきみちが、またそれらを南北につなぐ多くの路地が張り巡め...

【まめ知識01】まちのお地蔵様

お地蔵様は、人々の悲しみや苦しみを救済するために存在する庶民の身近な信仰対象です。「地蔵」はサンスクリット語の「大地の母胎」を意い訳やくしたもので、一般に「地蔵菩薩」と呼んでいます。 お地蔵様には妊婦の安産を守る「子安地蔵」、災難にあった人の苦しみの身代わりとなる「身代わり地蔵」、六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)の入り口に立ち、人々の苦しみを救済する「六地蔵」など、さまざまな姿があります。 この地では、寺院や町内の角、道ばた、家の一角など様々な形で祀られたお地蔵様を見かけることができます。 お地蔵様に飾られた赤ずきんと赤いよだれ掛けは、子供達を守る魔除けの風習によるものです。夏の地蔵盆が来ると、子供達はお菓子を目当てに町内のお地蔵様を巡礼します。 暮らしの中で、私たち庶民を見守り、願いごとを聞いてくれる存在がお地蔵様なのです。

【まめ知識02】小神社

明石城下の海浜地区一体には、岩屋神社をはじめ、伊弉冊神社、(伊弉冊神社の)御お旅所、伊弉諾神社、若宮神社など、大小の神社が和多く点在しています。 これら神社の参道は海に向かってまっすぐ伸びています。神社の祭神は海や川に因むことが多いという点からも、わたつみ(海神のこと)の神社であることは容易に想像できます。 玉垣が巡めぐる大きな神社は、古い由緒を持つ氏神様として地域の信仰を集めています。一方、小さな神社(小神社)は地主神として、まちなかにひっそりと祀られています。 小神社の祭神は様々ですが、祠を守る人々の様々な願いのニーズがそこに反映されています。小神社は規模も小さいため、拝殿を設けるまでもなく簡素な造りです。 拝殿がない代わりに、大抵の小神社には献花や供物等などを備えるための献台が設けてあることに気が付きます。献台は聖俗のささやかな結界となっています。

【まめ知識03】漁村の町並み

明石城下の計画に伴い、港から明石川の南側一帯に水主が集められ、当津村新浜と呼ばれる漁村が形成されました。 この地域は戦災にあいましたが昔の敷石に沿って再建されたため複雑に木造住宅が密集して建ち並ぶ、かつての町割が大きく変わることのない地域となっています。 海に向かって縦断する通りが幾重にも並ぶ縦割りの町並みは、海との関係を第一に大切にする漁村ならではといえます。 漁業という共通の目的で結ばれた一帯は、 一つの井戸を共同で利用したり、各プロックでお地蔵様を祀るなど、集住世帯が一つの共同社会として機能しています。 町並みとして見ると、屋根や庇の高さはほぼ同じで、 間口や奥行きも大きく差異はありません。  細く縦横に巡らされた路地や密集家か屋からなる人間サイズの町並みは、 地域の絆を一層結びつけているようです。

【まめ知識04】明石の町割

城下町以前、この地域は旧山陽道に沿って中庄村(明石川左岸)と大明石村があるだけでした。 お城は西の明石川と東の両馬川の中心の小山(赤松山)に築かれ、その麓を通っていた山陽道を南に迂回させて、外堀を設けました。 東西の川近くには足軽・組屋敷やお寺を配し、城下町を守り、明石川には警護のため江戸時代後半まで橋は架けられませんでした。 城下西端には姫路口門を構え十王堂が、東端には京口門に一向光明寺(朝顔光明寺)が配されました。外堀より内は侍町、その南は町屋で構成され、船溜りから西に船手(水主)が集められました。 城下町形成初期の町屋は、東から鍛治屋町、細工町、東魚町、東本町、西本町、西魚町、信濃町、東樽屋町、西樽屋町、明石町でした。 東西に職人町、中央に商人町という配置で、特に東魚町は鮮魚と練り物、西魚町は干物、海産物と専門別にお店が集められていました。 現在は違う町名(本町)になり、地名を手掛かりに往時を辿るのが難しくなってきました。

【まめ知識01】山側と海側の関係

人丸辺りのまちは、海岸段丘を境に山側と海側にはっきりと分かれています。中世以降は海側の街道は整備され、漁師町、宿場町、城下町から官庁街、商業地として発展していきました。 一方、山側は瀬戸内気候と台地が相まって水耕には適さない土地でしたが、近世以降のため池の普及により農地が広がりました。 明石城ができるまでの集落を見ても、大蔵谷村、大明石村、中之庄村はいずれも海側で、太寺は大蔵谷村字太寺と呼ばれていました。 経済力も海側の方が大きいので海側の裕福な人たちが、山側の開発を進めて行く場合が多かったと推測されます。大蔵町の人達が、朝霧や東野町、太寺に農地を持っていることが多く見られます。 大正から昭和初期にかけては、事業に成功した人の住宅建設がブームとなり、交通至便で見晴らしの良い上ノ丸、太寺が宅地として見直されるに至りました。 昭和2年には明石市で初めての土地区画整理事業が上ノ丸・太寺ではじまり、山側は益々宅地としての価値を高めていきました。

【まめ知識02】歌人 平忠度

忠度は平清盛の末弟で武将ですが藤原俊成に師事し、優れた歌人でもありました。寿永3(1184)年の一ノ谷の戦いに敗れ、両馬川付近で最期を遂げたと言われています。 写真1は追手の岡部六弥太忠澄と騎馬で川を挟んで戦ったことで、命名された両馬川にある石碑です。 この石碑はかつて川に架かっていた両馬橋と眼鏡橋の石材で作られたと伝わっています。 写真2は忠度の切られた右腕を供養した祠が、明治維新後に神社となった腕塚(右手塚)神社です。 写真3は街道から腕塚へ行くための腕塚道を示す道標です。 写真4は忠度の亡骸を埋め、五輪塔が建てられた忠度塚です。荒廃した塚を修復した5代目明石藩主の松平忠国が、自詠の歌を刻んだ石碑もあります。 その他に清盛の甥で、歌人でもある平経正(敦盛の兄)の馬を埋めたと言われる馬塚もあります。 歌人の最期が歌聖・柿本人麻呂縁の地であることを願う心が込められているようです。付近の方々は、史跡を地域の宝物として連綿と大切に維持管理されています。
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