人丸

37.村境の道標

子午線標柱の横に建つ道標には「左ひやうご大阪道、右加古川ひめぢ道」と刻まれています。建立された慶応元(1865)年時では、この道標は宿場町と城下町との境でした。 やがて明治になると大蔵谷村と明石村の村境の道標となりました。

38.中崎公会堂

明治 44(1910)年に竣工した明石郡立中崎公会堂は、明石郡伊川谷村出身で東大寺大仏殿の補強を任された加護谷祐太郎の設計です。 入母屋造りに千鳥破風と唐破風を重ねた伝統的和風の外観ですが小屋組は洋風のトラス構造です。

39.忠魂碑

忠魂碑は日露戦争などで戦死した地域出身の兵士の記念碑です。この忠魂碑は明石市制の施工直後の大正 8(1919)年 11 月 5 日に起工して、規模も大きく立派です。設計は公会堂と同じ加護谷佑太郎、書は東郷平八郎元帥の揮毫です。

40.美しい門

小さいながらも、数寄屋風入母屋の屋根には一文字瓦と銅板を使い、柱は小節の磨き丸太、軒裏は小丸太の扇垂木、竹を使った門扉と趣向を凝らしています。北に中崎公園、南に淡路島を望む別荘地にふさわしい美しい門です。

41.漱石の泊まった宿

公会堂の杮落し講演に来た夏目漱石は前日の明治 44(1911)年8月12日に衝濤館に泊まりました。日記には「庭先三間の所に三尺程ほどの石垣あり、波が其外でじゃぶじゃぶといふ」と記しています。桧皮や銅板、手摺など今でも往時を偲ぶことができます。

42.ラヂオ塔

大正 14 年(1925)に始まったラジオ放送を誰でも聞けるよう昭和5年から昭和18年にかけて全国に45箇所以上のラジオ塔が設置されました。現在兵庫県ではここ中崎と諏訪山公園に残るのみです。支柱の間に機器が置かれていたようです。

43.明石市立水族館跡

全国の水族館ブームにのり、県立水産試験場附属施設を譲り受けた明石市立水族館が昭和32年4月に開業しました。ペンギンプールやウミガメ、蛸たこの釣り堀が人気でしたが、大型水族館には勝てず、昭和 47 年に閉館しました。

44.中崎運河跡

明石藩が築いた堀川は運河として一部残っていましたが、下水が多く流れ込み、水質が悪化したため平成7年、公共下水道の景観モデル事業として運河を暗渠とし景観に配慮した植栽や遊歩道などを設置、憩いの場となりました。

45.釣りの後で宴会

昭和30〜40年代、東築港の北側は舟宿や料理旅館が建ち並び、賑わっていました。 明石は京阪神からの利便性も良く、釣りも人気で、釣り大会をしてから宴会を開くといった集まりも多く開催されました。今もその面影が残っています。

46.東築港

小笠原忠政は築城と同時に港を整備しました。砂を浚え、石垣を積んで港を築いたようです。港の東側は堀川(内川)と呼ばれ、今の公会堂までありました。その砂を積み上げたのが中崎で後に水主組組屋敷や船宮が設けられました。

【まめ知識01】山側と海側の関係

人丸辺りのまちは、海岸段丘を境に山側と海側にはっきりと分かれています。中世以降は海側の街道は整備され、漁師町、宿場町、城下町から官庁街、商業地として発展していきました。 一方、山側は瀬戸内気候と台地が相まって水耕には適さない土地でしたが、近世以降のため池の普及により農地が広がりました。 明石城ができるまでの集落を見ても、大蔵谷村、大明石村、中之庄村はいずれも海側で、太寺は大蔵谷村字太寺と呼ばれていました。 経済力も海側の方が大きいので海側の裕福な人たちが、山側の開発を進めて行く場合が多かったと推測されます。大蔵町の人達が、朝霧や東野町、太寺に農地を持っていることが多く見られます。 大正から昭和初期にかけては、事業に成功した人の住宅建設がブームとなり、交通至便で見晴らしの良い上ノ丸、太寺が宅地として見直されるに至りました。 昭和2年には明石市で初めての土地区画整理事業が上ノ丸・太寺ではじまり、山側は益々宅地としての価値を高めていきました。

【まめ知識02】歌人 平忠度

忠度は平清盛の末弟で武将ですが藤原俊成に師事し、優れた歌人でもありました。寿永3(1184)年の一ノ谷の戦いに敗れ、両馬川付近で最期を遂げたと言われています。 写真1は追手の岡部六弥太忠澄と騎馬で川を挟んで戦ったことで、命名された両馬川にある石碑です。 この石碑はかつて川に架かっていた両馬橋と眼鏡橋の石材で作られたと伝わっています。 写真2は忠度の切られた右腕を供養した祠が、明治維新後に神社となった腕塚(右手塚)神社です。 写真3は街道から腕塚へ行くための腕塚道を示す道標です。 写真4は忠度の亡骸を埋め、五輪塔が建てられた忠度塚です。荒廃した塚を修復した5代目明石藩主の松平忠国が、自詠の歌を刻んだ石碑もあります。 その他に清盛の甥で、歌人でもある平経正(敦盛の兄)の馬を埋めたと言われる馬塚もあります。 歌人の最期が歌聖・柿本人麻呂縁の地であることを願う心が込められているようです。付近の方々は、史跡を地域の宝物として連綿と大切に維持管理されています。